皆様は、剣道の歴史についてどれくらいご存知でしょうか?
日本の剣道は、「打突技術」へのフォーカスが強いため、なかなか歴史全体を学ぶことが少ないかもしれません。
そこで日本刀の出現から現代剣道まで、文化・用具・技術・ルール等全ての観点からまとめました。
|大まかな歴史解釈
剣道の起源は、大きく分けて2段階の解釈が存在します。
日本刀由来の起源
起源の源流となるものが、平安時代に登場した「日本刀」です。
いわゆる「反り」と「鎬(しのぎ)」を持ち、片刃の形状になっている日本独自の刀が登場したことで、それ以降は長らく戦いの主要な武器として用いられるようになりました。
その一方、次第に武士の精神的象徴としての性質も持つようになり、強さや美しさを表す美術品としても扱われるようになりました。
剣術由来の起源
もう一つの源流は、「剣術」からの変遷です。
戦国時代から、剣の操作法や格闘術として数多くの流派の剣術が誕生しました。
それが江戸時代になると、江戸幕府の平定により、剣術を用いた戦いの局面が少なくなりました。
そして、江戸中期に剣術の稽古に向けた「剣道具」の原型が開発されました。
この結果、より安全性を高めた稽古が可能となり、竹刀で打突し合う「打込み稽古法」が定着しました。
そこから幕末にかけて、修業の場である「道場」や剣術の「試合」が広まりました。
明治維新になると、武士階級が廃止されたため、一時下火となりましたが、大日本武徳会が設立されたことで徐々に体系化され、大正初期には「剣道」という名称で統一されました。
尚、打撃や投げ技等も含めた実戦想定の剣術も「撃剣」という名称で現在もわずかながら残っています。
|年代別の全歴史
ここからは、日本刀の起源から時系列に沿って歴史を記載していきます。
平安時代(794年~1185年)
現在知られている日本刀の形状が、いつから完成されたかははっきりしていません。
一説によると、かつて東北地方に騎馬戦を得意とする部族いて、彼らが蝦夷(現・北海道)との交易等の際に、騎馬隊の武器として生産された直刀の刀が原型とされています。
それが平安時代中期頃から、それまで直刀であったものから反りのある形状に変化しました。
断面が三角形の「平造り」、または断面が台形の「切刃造り」といったシンプルな形状が主流であったところから、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣へと変化していったといわれています。
そこから武士の主要武器として使用されるようになり、武家幕府が誕生した鎌倉時代(1185年~1333年)には、その製造技術は飛躍的に向上していたといわれています。
また武士の帯刀によって、日本刀の役割は単なる戦闘の武器から、武士の「精神的象徴」としての役割も担うようになっていきました。
尚、現在でも使われている「鎬を削る(しのぎをけずる)」という言葉は、日本刀の鎬を使った攻防から由来しています。
室町時代(1336年~1573年)
室町時代の後半から、戦国時代に突入し、後の剣術の源流となる様々な流派が誕生しました。
特に合戦において、足軽の登場によって白兵戦(=刀剣等の近距離戦闘用の武器を用いて格闘等も交えて行う戦闘スタイル)が主流になったことから、戦場における剣術の重要性が一段と高まりました。
一刀流を興した伊藤一刀斎(いとういっとうさい)、新陰流を興した上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)、鹿島神宮にルーツを持つ塚原卜伝(つかはらぼくでん)といった後世に名を残す剣豪が活躍したのもこの時代です。
さらに1543年の鉄砲伝来を契機に、日本に良質な砂鉄があることが認識され、いわゆる「たたら製鉄」(=砂鉄や鉄鉱石を、粘土製の炉の中で木炭の燃焼熱によって低温還元し、高純度の鉄を製造する手法)により、純度の高い玉鋼(たまはがね)を用いて日本刀が製作されるようになりました。
そこから長い戦乱の時代を経て、日本刀製作の技術や刀法及び剣術の高度化・専門化が進んでいきました。
江戸時代(1603年~1868年)
江戸幕府が成立すると、乱世の世から一変して世が平定され、合戦の頻度も低下していき、戦いにおける剣術の重要性も低下していきました。
「人を活かすための剣術」
その一方で、その頃既に「武士の精神的象徴」としての日本刀の地位が確立されていたこともあり、剣術が「人を殺す技術」から「人間形成を目指す修練の道」として昇華されていきました。
これを「活人剣(かつにんけん)」と称し、戦闘技術だけでなく、武士としての生き方や価値観といった、精神論法までカバーするものとなりました。
これにより、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の「兵法家伝書」、沢庵宗彭(たくあんそうほう)の「不動智神妙録」※、宮本武蔵(みやもとむさし)の「五輪の書」といった数々の書物も生み出され、後の日本人の価値観にも大きく影響を与えています。
※沢庵宗彭はいわゆる「たくあん漬け」の考案者とされ、著書の「不動智神妙録」は、いわゆる「剣禅一如(けんぜんいちにょ)」を説いて広めた書籍である。
打ち込み稽古の成立
当時の剣術の稽古といえば、素振り・木刀での打ち合い・形の3つが主流でありました。
武器と防具ともに、安全に修練を行う用具が存在していなかったためです。
それが江戸時代中期頃に、直心影流(じきしんかげりゅう)の長沼国郷が、いわゆる防具(後の剣道具)として頭に装着する面と腕に装着する小手を製作しました。
さらに上泉伊勢守信綱が開発したといわれる「袋しない」(=一本の竹を複数本に縦割りし、それに袋状の革をかぶせて縫い合わせたもの)を用いて、「竹刀打ち込み稽古法」を確立しました。
これが、現在の剣道の直接的源流といわれています。
1750年代には中西派一刀流※の中西忠蔵子武が、鉄面を装着し、竹具足式の防具を使用し始めました。
さらに胴も改良したことから、剣術の稽古内でもある程度強く打ち込むことができるようになりました。
このスタイルは各流派に広がり、直接コンタクトを重視した稽古が繰り広げられるようになりました。
それに伴い、道場間や流派間での他流試合が行われるようになりました。
※中西一刀流は、後の剣道家である高野佐三郎をはじめとする高野家(現・高野道場@神奈川県)が継承している。
「剣道」の原型が成立
江戸時代末期になると、防具の改良も相まって、より強度の高い「四つ割り竹刀」※が発明され、胴もなめし革を張って漆で固める、現在の剣道具に近いものが開発されました。
幕府設立道場である講武所頭取並の男谷信友が、この四つ割り竹刀を公認し、全長を3尺8寸と規定しました。
※「竹刀」の語源は「しなる」ことに由来し、古くは「ちくとう」と読むこともあった。
この頃になると、大石神影流(おおいししんかげりゅう)の開祖である大石種次(進、後に七太夫、武楽)が、突きへの安全性を高めた面や横金13本の鉄面、竹腹巻、半小手といった防具を使用し、ほぼ現在の剣道具に近いものが完成されました。
道場や流派も隆盛を極め、千葉周作の玄武館(北辰一刀流)、桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)、斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)※が「幕末江戸三大道場」といわれました。
中でも千葉周作は、竹刀打ち込みの技を体系化し、「剣術六十八手」を確立しました。
この時に命名した「追込面(おいこみめん)」や「摺揚面(すりあげめん)」等の名称は、現在でも技名として使用されています。
※「幕末江戸三大道場」で現存するのは練兵館のみで、現在栃木県にあり、強豪道場としても知られている。
当時の竹刀での試合は、現在の競技目的のものではなく、あくまでも真剣を用いた実際の戦闘を想定して行われていました。
現在のような審判規則や大会等はなく、10本勝負が通例とされていたといわれています。
明治時代(1868年~1912年)
明治維新により、武士はそれまでの職を失うことになりました。
興行としての剣術
そこで直心影流の榊原鍵吉が、明治6年(1873年)剣術の試合を見世物として披露して収入を得る「撃剣興業」を開始しました。
撃剣興行は、客寄せのために派手な動作や掛声を含み、人気の興行となりました。
これを受けた練兵館の2代目斎藤弥九郎(斎藤新太郎)や、玄武館の千葉東一郎、千葉之胤といった大家といわれる剣術家も興行を催行し、全国各地に広まっていきました。
警察との結びつき
明治9年(1876年)には廃刀令が公布され、武士の帯刀が禁止されるとともに徐々に下火になり、その後武家出身者は戦闘や剣術が必要とされる警察に奉職する者が多くなりました。
それに伴い、明治10年(1877年)の西南戦争では、警視庁の抜刀隊が数多く従軍し、戦地で大きな功績を挙げました。
これにより剣術の価値が見直され、大警視であった川路利良が著作の「撃剣再興論」の中で、警察において剣術の訓練を奨励することを発表しました。
これが、今日における警察と剣道の結びつきに繋がっています。
明治12年(1879年)には、警察内の巡査教習所に道場が開設され、それと同時に「警視流木太刀形」や「撃剣級位」が警視庁によって制定されました。
これによりさらに撃剣興行や地方の剣術家による警察への就職が相次ぎ、明治16年(1883年)には、道場の師範として登用された警察官が200名を超えていたといわれています。
明治18年(1885年)には、弥生神社(@東京都千代田区)において、第1回奉納武術大会(現・弥生慰霊祭記念柔道剣道試合)が警視庁主催で開催されました。
この大会が、全国規模の剣道大会の始まりであったといわれています。
この大会を機に、弥生神社は剣術の最大拠点となり、これを受けた地方警察においても、剣術を奨励する流れが生まれました。
参考記事:【警察の剣道事情】〜特練員とは何か?〜
「大日本武徳会」の設立
明治28年(1895年)には、平安遷都1100年記念や日清戦争の勝利によって日本武術奨励の気運が高まり、剣術を含む武術の振興、教育、顕彰を図る全国組織として「大日本武徳会」が京都設立されました。
設立当初は、天覧試合(=天皇が観覧する試合)を開催することを目的としていましたが、天皇の外訪中止により、全国の統括組織としての位置づけに変換されました。
総裁には参謀総長であった小松宮彰仁親王(皇族・陸軍大将)を迎え、会長に渡辺千秋(京都府知事)、副会長に壬生基修(平安神宮宮司)が就任し、警察を中心として内務省の地方組織を活用する形で組織の展開が図られました。
設立同年には、第1回の武徳祭大演武会(現・全日本剣道演武大会=京都大会)が開催されました。
それまで剣術には様々な流派が存在していましたが、大日本武徳会は流派を超えた統合組織として、以下のような役割を担っていました。
・各都道府県支部の設立
・演武会開催(現・全日本剣道演武大会=京都大会)
・段位称号の授与(範士・教士・錬士)
・武徳殿の造設および運営(現・京都武徳殿)
・試合審判規則の制定
・武術教員養成所の設立(後の武道専門学校・1947年廃校)
このように、大日本武徳会によって現在の全日本剣道連盟の基礎が確立されたといえます。
時期を同じくして、明治 33年(1900年)に新渡戸稲造著作「武士道」の英文初版が海外で出版され、日本人の価値観や生活規範が海外にも広く知られるようになりました。
明治44年(1911年)には、剣道家である衆議院議員星野仙蔵、小沢愛次郎らの請願運動により、いわゆる「撃剣」が「剣道」という名称で中等学校の教育科目になり、教育現場にも剣術が持ち込まれました。
これにより、初めて「剣道」という名称が放棄的に使用されました。
参考記事:【新渡戸稲造「武士道」の世界】〜武士道と現代剣道〜
大正時代(1912年~1926年)
中等学校の教育科目に「剣道」が採用されて以来、「剣道」という名称が広がりつつありましたが、いわゆる古流剣術と明確に区別されておらず、流派名を名乗る剣道家も多い状況でした。
集団指導
その頃、大日本武徳会武道専門学校(通称:武専)と東京高等師範学校(通称:東京高師・現在の筑波大学)が剣道教員の養成機関となっていました。
当時、著名剣道家として名を馳せていた武専教授の内藤高治と東京高師教授の高野佐三郎は、「西の内藤、東の高野」といわれていました。
東京高師で剣道指導に当たっていた高野佐三郎は、それまである程度個別に指導していたところを、大人数へ向けて一斉に指導することに課題を感じ、団体教授法(号令に合わせて全員が同じ動作をする稽古法)を考案しました。
大日本帝国剣道形
団体教授法と並行する形で、大正元年(1912)に大日本武徳会が全国から25名の剣道家を選び、彼らの監修のもと「大日本帝国剣道形」(後の「日本剣道形」の原型)が制定しました。
この「大日本帝国剣道形」により、全国各地に分散していた流派を統合し、ある程度共通の技法として体系化がなされました。
また明治初期の興行等によって生まれた、技の乱れや刀法を軽視した打突動作を正し、一つの基準を示しました。
「剣道」の統一と競技化
大正6年(1917年)には段位制が導入され、技量や精神を鍛錬する目安や目標が設定されました。 これらにより、日本刀を想定した剣術の技や精神を、後世に継承しやすくなりました。
このような流れを受け、大正8年(1919年)に西久保弘道(警視総監・東京市長等歴任)が大日本武徳会武道専門学校校長に就任し、心身鍛錬を目的とした「武道」を提唱したことから、「武術」を「武道」に改称し、競技名称を「剣道」に統一しました。
大正13年(1924年)からは、明治神宮体育大会が開催され、現在のようなリーグ戦やトーナメント方式で優勝者が決められる方式が採用されました。
これに反対する剣道家もおり、大日本武徳会が大会不参加を表明したり、武専教授の内藤高治が強硬に反対するなど、一定の混乱も見られました。
一方で、当時としては画期的なシステムであり、剣道が「現代剣道」として競技性を持つ契機となりました。
昭和時代(1926年~ 1989年)戦前~戦時中
昭和初期には、2度の天覧試合(御大礼記念天覧武道大会・皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会)が行われ、剣道はその地位を着実に築いていきました。
また1931年(昭和6年)には、師範学校と中等学校で剣道が必修科目となり、国民が広く剣道に触れることとなりました。
しかし第二次世界大戦開戦を機に、剣道は政治動向に左右されるようになっていきました。
戦闘訓練としての剣道
戦時体制に入った日本政府は、昭和17年(1942年)に大日本武徳会を厚生省、文部省、陸軍省、海軍省、内務省共管の外郭団体に改組し、国民の戦闘訓練に剣道を導入しました。
この時の剣道は、接近戦での戦闘を想定していたため、打突を「斬突」という表現に改変し、 軽い打突や中途半端な打突は認めず、一本勝負を奨励するなど、戦闘に限りなく近いものとなりました。
またその精神性も国民の戦意高揚に利用され、極めて好戦的な形となりました。
1943年(昭和18年)には、それまでの段位制を等位制(五等〜一等)に、「教士」の称号を「達士」に改変する等、より軍部を意識したものに変化していきました。
昭和時代(1926年~1989年)戦後
戦後剣道は、GHQによる禁止期間を経て、再興が図られていきました。
剣道禁止期間
昭和20年(1945年)に日本は無条件降伏を行い、連合国軍に占領されることとなりました。
これに伴い、当時の内務省と結びつきのあった大日本武徳会は、戦争遂行にあたって一定の役割を果たしたとみなされ、同年に連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)は大日本武徳会の解散を命じました。
これにより大日本武徳会は民間団体と改変され、各武道組織の統制も消滅しました。
1946年(昭和21年)には、大日本武徳会そのものも消滅し、所有財産は国庫に接収されました。
さらに1947年(昭和22年)には、関係者約1300名が公職追放され、剣道の組織的活動は禁止されました。
この時、1945年(昭和20年)に学校および付属施設において、剣道が全面的に禁止され、翌年には武道教員の教員免許状が無効とされました。
1949年(昭和24年)には、警察における剣道も禁止され、事実上「剣道」が消滅した形となりました。
「撓競技」の誕生
1950年(昭和25年)に、一度「全日本剣道連盟」が創設されるが、日本の独立が回復していなかったため、「剣道」という名称が認められず、剣道から「撓競技」(しないきょうぎ)に変更されました。
洋服を着て竹刀で打ち合う競技に形を変え、武道的性格を払拭した「スポーツ」としての位置で実施されました。
フェンシングのように軽量の防具を着用し、袋撓(ふくろしない)で打ち合いポイントを競う競技スタイルでした。
1950年(昭和25年)には、第1回全日本撓競技大会が名古屋市で開催され、翌年には東京で第1回全国撓競技大会が開催される等、競技としての形を残す取り組みが行われました。
また1952年(昭和27年)には、中学校以上の正課授業として撓競技が採用され、形を変えて教育現場にも導入されました。
尚、同時期に警察では竹刀の小太刀のようなものを使用した「警棒術」(警棒操法)という競技が考案されていました。
「剣道」の復活
1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約により、日本の独立が回復したことを受け、改めて全日本剣道連盟が創設されました。
戦時中のような使われ方をしないため、「民主的競技スポーツ」として剣道を実施していく方針が示されました。
これが、現在の全日本剣道連盟となった組織です。
剣道と撓競技は一定期間共存していましたが、昭和29年(1954年)に全日本剣道連盟による全日本撓競技連盟の吸収合併をもって撓競技は廃止され、再度「剣道」として全国に広がっていきました。
尚、この時、撓競技のルールの一部は、剣道に引き継がれました。
昭和28年(1953年)には、第1回全国警察官剣道大会(@警視庁体育館)、第1回全日本剣道選手権大会(@蔵前国技館)、第1回全日本学生剣道選手権大会(@神田国民体育館)も開催され、競技としても完全に復活を果たしました。
剣道具店の勃興
剣道の再興に合わせるように、剣道具の需要が爆発的に増加したのを受けて、多くの剣道具店や剣道具職人が誕生しました。
現在でも老舗としても知られる大和武道具製作所(@東京)、松興堂(@東京)、松勘工業(@埼玉)等は、この時の剣道具サプライヤーとして昼夜を問わず剣道具製作にあたりました。
当時はまだ完全分業制であり、各地に部品や部位ごとの職人が点在し、それらをまとめて組み立てる形で商品提供を行っていました。
いずれの技術も門外不出であったため、「東京型」「関東型」「関西型」等のエリアごとのスタイルも生まれました。
「伝説の小手職人」ともいわれる宮下悟道氏(みやしたごどう)をはじめ、現在でも名を残す剣道具名人が生まれたのも、この時期であったといわれています。
参考記事:
【伝説の職人】大和武道具製作所 伊藤毅
【伝説と伝統を守り抜く】大和武道具製作所 伊藤喜一郎
【古き良きにこだわる】松興堂 松本孝仁
【”オンリーワン”の小手(甲手)製作】米倉武道具 代表米倉彰彦
昭和時代(1926年~1989年)高度経済成長期
高度経済成長期を迎え、剣道の組織やシステムも成熟期を迎えました。
競技システムの整備
戦後10年が経過したころから、大会・段位制・正課授業といった現在にも続くシステムが整備されました。
1955年(昭和30年)に、初めて国民体育大会の正式種目となり、1958年(昭和33年)には宮内庁が全日本剣道連盟に天皇盃を下賜し、これが全日本剣道選手権優勝者に下賜される元となりました。
1957年(昭和32年)には、全日本剣道連盟が最高段位を十段と制定し、段位性の基準を明確化しました。
さらに教育現場では、1957年(昭和32年)に中学・高校の正課体育として採用され、1962年(昭和37年)には中学校で必修正課科目として実施されました。
その翌年には、学習指導要領の改正により、高校でも必修正課科目として実施されました。
女性の進出
1960年代から1970年代頃から、女性の剣道人口が徐々に増加していきました。
元々、武士の剣術から由来していることや、戦時中に戦闘訓練として用いられていたことから、女性の剣道家は極めて少数でした。
それが戦後の男女共学化や女性の社会進出により、徐々に人口が増え始め、昭和37年(1962年)に第1回全日本女子剣道選手権が開催されました。
参考記事:【全日本剣道選手権・全日本女子剣道選手権】歴代結果まとめ
国際化
戦前から、剣道は海外でも一部実施されていました。
特に日本人移民が多かったアメリカ、ブラジル、また日本が戦時中に統治していた朝鮮や台湾等でも剣道が行われていましたが、指導者不足や用具の不足から本格的なものではありませんでした。
戦後も目立った国際化は実施されず、昭和31年(1956年)に米国剣道使節団17名が来日し、日本人と試合を行ったと記録がある程度でした。
それが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックにおいて、デモンストレーション競技として剣道が披露され、海外への認知拡大の景気をなりました。
そして昭和45年(1970年)に、剣道の国際競技団体として国際剣道連盟(現・FIK)が発足しました。
これにより、同年第1回世界剣道選手権大会が日本武道館にて開催され、17の国と地域が参加しました。
剣道の理念
剣道の広がりを受けて、剣道の明確な定義付けを行う機運が高まり、昭和50年(1975年)3月20日に全日本剣道連盟が「剣道の理念」を公式に制定しました。
~剣道の理念~
出典:全日本剣道連盟
剣道は剣の理法の修錬による 人間形成の道である
~剣道修錬の心構え~
剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである
平成時代(1989年~2019年)
平成に入ると、日本の景気低迷と国際化の弊害が少しずつみられるようになりました。
社会的地位の再定義
平成9年(1997年)には全日本女子剣道選手権大会に皇后盃が下賜され、名実ともに女性の剣道も男性と同じ位置付けとなりました。
平成12年(2000年)には、剣道の最高段位が十段から範士八段に改定され、現在の段位階級が確立されました。
全日本剣道選手権は、毎年NHKでも放映されるようになり、連覇を含む合計6度の優勝を果たした宮崎正裕氏(現・神奈川県警)などのスター選手も登場し、「平成の剣豪」の愛称で広く知られるようになりました。
参考記事:【全日本剣道選手権・全日本女子剣道選手権】歴代結果まとめ
正課授業必修化
平成24年(2012年)からは、男女ともに武道が中学校の体育必修科目となり、剣道をはじめとする武道が、男女問わず義務教育課程に盛り込まれました。
一方で、宗教上の理由により剣道の履修を拒否するというケースもあり、最高裁判所まで争われた判例もありました。
海外製剣道具の隆盛
戦後の剣道復興期を経て、その旺盛な需要にこたえるため、国内でも剣道具の量産体制を敷く工場が増加していきました。
そして1990年代頃から、日本で修業した台湾系の職人を中心に、韓国での剣道具生産が始まりました。
そこからより安価な生産コストを求めて中国に移動し、それに伴って安価な剣道具が日本国内に大量に入ってくるようになりました。
元々、剣道具店は「飾りを華美にする」ことで販売単価を釣り上げていたこともあり、シンプルで安価な剣道具の登場で市況が一気に変化しました。
当時の海外製の剣道具は、相当に品質が低く、破損やケガにつながるものも多かったといわれています。
2000年代に入ると、生産拠点がフィリピンやベトナム等に移転するとともに、海外での生産技術も向上して、比較的品質の安定したものも流通するようになりました。
一方で地元の学校や道場にも十分部員がいたため、各剣道具店は「輸入して地元のチームに販売する」というビジネスモデルが主流となりました。
職人も高齢化していたことから、商品開発が鈍るようになり、海外製剣道具が主流になるとともに、値段の低下に拍車がかかったといわれています。
現在では、流通する90%以上の剣道具が海外産であり、中国や台湾、韓国のほか、フィリピン、ベトナム、ラオス、インドネシア(竹刀)でも生産されています。
参考記事:
【剣道具を前へ進める】栄光武道具 間所義明
【世界最大の竹刀工場を歩く】宏達(信武商事)
映像配信
情報技術の発達により、様々な形で剣道を視聴できるようになりました。
先述のとおり、全日本剣道選手権は毎年NHKで放映され、2011年の視聴率約4%、2012年の視聴率約2%と、テレビ衰退が著しい近年でも、一定の視聴者層を獲得しています。
また平成21年(2009年)に動画配信を開始した「Let’s Kendo」をはじめ、YouTubeで試合動画等が視聴できるようになりました。
これにより、それまで主に剣道雑誌や試合会場でしか仕入れられなかった、トップ選手の情報や映像を、各人が自由に視聴できるようになり、特に学生剣道の躍進(後述)に影響を与えたといわれています。
一時は違法合法も含め、映像が氾濫している状況でしたが、現在では全日本剣道連盟により全日本選手権や世界剣道選手権のライブ配信が行われる等、オンデマンドでの視聴環境が整備されつつあります。
一方で、雑誌メディアの凋落が止まらず、平成29年(2017年)に40年もの歴史を誇っていた月刊「剣道日本」が突如休刊となり、翌年には親会社が破綻したことで、一時「剣道日本」の名前自体が消滅する事態となりました。
(2019年に別会社として復刊)
参考記事:【”剣道JAPAN”刊行への想い】剣道日本 月岡洋光・安藤雄一郎
学生剣道の躍進
YouTube等でトップ選手の映像視聴が容易となり、平成後半頃から学生をはじめとする若年層の躍進が顕著となりました。
特に、平成26年(2014年)に史上最年少(当時筑波大学3年生)で竹ノ内佑也選手が全日本選手権で優勝したのを皮切りに、平成27年(2015年)の世界剣道選手権では、史上初めて高校生1名を含む学生3名が日本代表に選出(竹ノ内佑也選手・村瀬諒選手・山田凌平選手)される等、学生の躍進がみられるようになりました。
さらに平成26年(2014年)と平成27年(2015年)の全日本剣道選手権では、いずれもベスト4が学生を含む20歳代の選手であり、それまでは警察官および30歳代が主力であった時代から、大きく変化がみられるようになりました。
国際化の取り組み
昭和45年(1970年)に第1回世界剣道選手権が行われて以来、3年に一度のペースで同大会が開催されました。
回を追うごとに参加国・地域が増え、平成30年(2018年)の韓国大会では、56の国と地域が出場を果たしました。
それに伴い、国際剣道連盟への加盟国・地域も年々増加し、現在では約60もの国と地域が加盟しています。
特に平成初期頃からは、日本人駐在員が現地で剣道チームや連盟を立ち上げるケースが多く、その指導を受けた現地選手が指導者になる等して、徐々に組織化が図られました。
また、アメリカ等の元々日系人が多いエリアでは、長年にわたり現地で剣道指導が行われてきたうえ、その中には日本の大学に剣道留学する方もいて、彼らが技術を持ち帰ることで全体のレベルアップが図られました。
それに伴い、各地域剣道連盟主導で「全米選手権」「欧州選手権」「ASEANトーナメント」「ラテンアメリカ剣道大会」等、様々な大会が開催され、さらには「香港オープントーナメント」等の民間主催の大会も数多く開催されています。
全日本剣道連盟では、
・外国人剣道指導者夏期講習会(通称:Kitamoto Camp)
・中古剣道具寄贈事業
・日本人講師派遣事業
等の取り組みも行っており、日本文化を守りながら国際化を図っていく取り組みが行われています。
国際化の弊害
剣道に関する海外への情報発信が乏しかったことから、韓国が「コムド」として起源を主張するようになりました。
特に平成13年(2001年)に「世界剣道連盟」が韓国結成され、役員にテコンドー関係者を任命し、韓国起源の主張を強めていきました。
そこで全日本剣道連盟から「全剣連の見解」として剣道の起源について「日本で育った歴史的背景をもった剣道を指しています。」と明確に定義し、正式に声明を出しました。 また「KENDO」の名称を守るため、2006年に国際剣道連盟がGAISF(国際競技連盟連合・旧スポーツアコード)に加盟を果たしました。
この結果、剣道は「ワールドコンバットゲームス」等にも参加した実績を残しています。
尚、全日本剣道連盟は、日本オリンピック委員会(IOC)にも加盟しています。
令和時代(2019年~)
令和を迎え、それまで長らく剣道界が課題としてきた「マネタイズ」「少子化対策」「ルール規定」等に向き合う動きが出てきています。
ルール改定
剣道の高速化および技の多様化に伴い、剣道具や竹刀は「より軽量」で「より可動生が高い」なものがトレンドとなりつつありました。
竹刀においては、「スーパーバランス竹刀」といわれるような、アイブを軽量化した竹刀や、極端な「胴張」形状の竹刀が登場していました。
剣道具(防具)においては、面垂が極端に短いものや、小手筒が極端に短く、安全性に問題がみられるものが流通していました。
そこで令和元年(2019年※厳密には平成31年4月)に、全日本剣道連盟は「試合・審判規則」を改正し、竹刀と剣道具に関する新たな規定とガイドラインを制定しました。
これにより一部の大会において、竹刀検量に混乱が起こる等しましたが、地道な情報発信により徐々に浸透しつつあります。
参考記事:全剣連完全監修!【竹刀・剣道具(防具)の規定ルール改正を徹底解説】全日本剣道連盟 藤原崇郎
ビジョンを示す
2020年9月16日に、全日本剣道連盟が内閣府の認可を受けて公益財団法人へ移行しました。
それにあたり、それまで長らく対策が取られてこなかった「少子化」「競技人口」「マネタイズ」「財政均衡」「組織ガバナンス」等の重要課題に対し、「全日本剣道連盟《基本計画》〜次世代への継承に向けて〜」と題した中期ビジョンプランが策定されました。
政府やスポーツ庁主導のもと、
・競技人口目標
・ガバナンス体制目標
・財政目標
という3点をメインとし、従前よりもかなり切り込んだ内容となりました。
参考記事:【次世代への継承に向けて】全日本剣道連盟基本計画を徹底解説!
新型コロナウイルスの影響
令和2年(2020年)から、日本でも「新型コロナウイルス」の感染拡大が始まりました。
同年3月には政府から「緊急時代宣言」が発令され、これを受けて全日本剣道連盟は一定期間の対人稽古自粛を呼びかけました。
並行して稽古再開の可能性を模索し、6月に「稽古再開に向けた感染拡大予防ガイドライン」を策定しました。
これにより、マスクを着用しての稽古が推奨され、それに伴う熱中症に対する報告窓口等も設置されました。
各種大会は延期や中止が決定し、高校三大大会である「全国選抜」「玉竜旗」「インターハイ」も中止となりました。
また全日本剣道選手権と全日本女子剣道選手権も無期限延期が発表され、その後令和3年3月(2021年)に史上初めて男子女子での同時開催が決定しました
尚、警視庁や愛知県警において、緊急事態宣言後の稽古でクラスターが発生した事態を受け、同年の予選には警察官の不出場が決定しました。
2021年5月に予定されていた世界剣道選手権(@フランス)も1年延期が発表され、それに向けた全日本強化合宿等も中止となりました。
一方で、昇段審査は再開の動きが強まり、全日本剣道連盟は「審査会実施にあたっての感染拡大予防ガイドライン」を制定して10月頃から昇段審査を再開いたしました。
延期していた審査会も振替開催したため、史上初めて八段審査が2ヶ月連続で行われる等、市民剣道家を繋ぎ止めると同時に、各剣道連盟の事業予算確保の動きが続いています。
参考記事:全剣道家必読!【感染拡大予防ガイドライン完全解説】全日本剣道連盟 中谷行道・宮坂昌之
|剣道の歴史を理解しよう!
日本の剣道は、「打突技術」へのフォーカスが強いため、なかなか歴史全体を学ぶことが少ないかもしれません。
一方で、剣道は国内に有段者を約200万人抱え、現役競技人口でも200万人規模(想定)を誇る稀有な武道であります。
その我々が、次世代に正しく伝えていく責任があるのではないでしょうか。
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