▼スペシャルインタビュー▼
「胴胸名人”泉皓”が辿った道」
〜旧佐々木武道具店〜
胴胸製作の大名人であった、”泉皓(せんこう)”こと佐々木繁氏と佐々木實氏。
兄佐々木繁氏の急逝に伴い、廃業を余儀なくされた状況下で、全国の”泉皓ファン”へのラストメッセージをお聞きいたしました。
(以下 KENDO PARK=KP 旧佐々木武道具店=佐々木)
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|美しい物を作り続けること
KP:
「泉皓(せんこう)」という銘の由来を教えてください。
佐々木:
「泉皓」の銘は、お寺の住職につけていただきました。
「泉のように絶えることなく湧き出る」という意味で「泉」の字を、「清く美しい物を作る」という意味で「皓」の字を組み合わせてネーミングしていただきました。
つまりは「美しい物を作り続けられるように」という願いが込められています。
KP:
剣道具製作、特に胴胸製作に携わってこられた歴史を教えてください。
佐々木:
正確にはわかりませんが、昭和10年前後に父が創業したと聞いております。
もともと佐々木家は鳥取がルーツだったのですが、関西に出てくるのを機に剣道具製作を始めたようです。
当初は父と伯父をメインに、母を含めた3人でお店を切り盛りしていました。
当時は剣道ではなく、銃剣道の防具を製作しておりました。
そもそも昔は、剣道具の各部品ごとに専門の職人がいたので、剣道具製作は完全に分業制でした。
そのいった環境下であったので、父は胴胸を専門に製作するに至ったようです。
それが戦後に武道中断期を迎え、一気に仕事がなくなりました。
その間、父は武道具の代わりに駄菓子屋さんを営んで、生計を立てていました。
そういった商売の才は、元々持っていたのかもしれません。
その後武道が再開されると、父のもとに胴胸製作依頼が来ました。
戦後の武道再開期であったので、銃剣道と剣道をあわせてかなりの需要があったようです。
KP:
そしてご自身とお兄様が、技術を引き継ぎます。
佐々木:
私たち兄弟(兄:佐々木繁・弟:佐々木實)は、昭和38年に父が亡くなったのを機に、母を手伝う形で事業を受け継ぎました。
実は兄は工業高校の機械課に進学したため、そこで製図の技術を学びました。
その技術が、後の胴胸の型起こしの作業に大変役に立ちました。
事業を継ぐにあたり、関西の胴胸製作の名人でいらっしゃった橋本海防(はしもとかいぼう)さんに弟子入りし、技術を学びました。
泉皓銘の胴胸は、この時に学んだ技術がベースとなっています。
事業は私と兄、母の3人体制でスタートしましたが、当初は卸売しか行っていなかったため、ある大手剣道具メーカーの下請けとしての仕事が主でした。
とはいえすべて手作業ですので、毎日目一杯作業をしても50枚/月くらいが限界でした。
現在海外の工場では1日で50枚程度作ってしまいますが、当時は海外製はほとんどなかったので、仕事は多分にあったと思います。
|佐々木武道具店としてのスタート
KP:
今でこそ、とてつもない量の型紙がありますが、当初から様々な模様を手がけていたのですか?
佐々木:
いいえ、事業開始当初は亀甲をメインに、あとは波千鳥を手がける程度でした。
生産枚数を確保しなければいけないことや、当時は今のような様々な模様パターンがあったわけでもないので、製作する胴胸のパターンを絞っていました。
KP:
その後、海外産の剣道具も出てきました。
時代の変化に対しては、どのように対応していったのですか?
佐々木:
だんだん卸販売だけでは販路が拡大していかなくなり、徐々に胴胸以外の物も取り揃えて小売をスタートいたしました。
そして、平成元年に「佐々木武道具店」として開業いたしました。
また平成初頭から、中国で胴胸の生産が始まりました。
この頃から胴胸の曙光模様や飾りの種類が高くなり、それに伴ってお客様のニーズも多様化していきました。
我々としても、サイズや模様に応じた型紙を起こしていく必要が発生し、そこから型紙の枚数が激増致しました。
同じ曙光や飾りパターンでも、サイズによって新たな型紙が必要になってくるため、そこは本当に大変でした。
先述の通り製図は得意な方でしたが、図面を紙に落としこんでからプラスチック製の型紙に転載していくので、1枚作るだけでもそれなりに時間がかかりました。
最終的には、型紙だけでも数十枚にのぼりました。
近年では、良い材料が手に入らなくなりました。
ずっと懇意にしてきた国内の革業者や糸業者が軒並み廃業している関係で、昔に比べると材料確保が本当に大変になりました。
手でシボ(=凹凸)をつけるような、上質な手揉みクロザン革などは、今ではほとんど手に入らないように思います。
元来国内の革業者の革は黒毛和牛から取っていた物が多いのですが、近年肉質を霜降りにするために過剰に太らせる飼育法が主流となり、それに伴って革も弱い物ばかりになってしましました。
結果として細かい目の亀甲の曙光などは、製作が難しくなりました。
|「泉皓」のこだわり
KP:
泉皓の胴胸のこだわりを教えてください。
佐々木:
色々ありすぎてお伝えしきるのは難しいですが、一番わかりやすいところでは曙光の立体感ではないでしょうか。
私どもが製作したいたものは、中の芯材を限界まで圧縮することで、耐久性を保ちながらも針を裏側まで突き通して模様をつけています。
結果として立体的(=凹凸がはっきりしている)な仕上がりでありながら、何十年使用いただいてもほとんど劣化しません。
使えば使うほど、違いを感じていただけると思います。
また、小胸から縁革にあたる部分の狭さも見ていただきたいです。
胴台との取り付け部分にあたる部分ですので、浅ければ浅い(=狭い)ほど胴胸の反りや胴台の湾曲に合わせることが難しくなります。
そのため近年では、この部分が広いものが主流となりつつありますが、どうしても”不恰好”というのが正直な感想です。
この部分をすっきりと見せているのも、こだわりの一つです。
参考記事:【剣道防具(剣道具)の名称一覧】
KP:
胴胸製作において、一番難しいところはどこですか?
佐々木:
生物の革を扱いますので、その伸縮や厚さを読み切らなければならないところです。
もちろん厚さが均等ではありませんし、革の収縮具合も個体によってまちまちです。
そういったことも考えながら、革を貼ったり糸を刺したりするのは、機械では絶対に実現できない部分です。
そこの技術に関しては、お客さんのみならず各販売店からも最も支持されたところであると思います。
|未来へのラストメッセージ
KP:
平成28年に、残念ながら兄の繁さんがご逝去されました。
佐々木:
突然の出来事であったので、本当に大変でした。
高齢になるにつれ、互いを補完しながら仕事をしていたので、手がけていた仕事は完全に止まってしまいました。
後継者もいなかったため、結局立て直しを断念し、佐々木武道具店の閉店を決めました。
胴胸や顎等の残余在庫がありましたので、閉店セールを行ったところ、日本全国から多くのお客様にいらしていただき、たくさんの励ましのお言葉もいただきました。
実はブログ等で我々のことを度々書いてくださっていた方がいらっしゃり、それを見た方々が全国に広めてくれたということでした。
お世話になった皆様には、本当に感謝しかございません。
KP:
後継者問題に関してはいかがですか?
佐々木:
剣道具に限らず、材料を扱う業者、漆塗りの業者など、後継者不足から廃業してしまった業者が、私も周りにも数多くいらっしゃいます。
分業制でやってきたため、1箇所が辞めてしまうと、関連業者も仕事にならなくなるケースが多数あります。
今こうして失われる技術が多いことを考えると、情報発信の重要性を感じています。
私も含め、日本の職人の特性として「自分のことをあまり語りたがらない」性質が強いと思います。
もっと言えば、発信しようにもその方法がわからないというのが正直なところです。
結果として、「泉皓」ブランドの浸透 や後継者育成についても立ち遅れてしまいました。
幸い、状況をご理解いただいてサポートしてくれる方もいらっしゃるので、今後の技術保全や残余在庫の処理に関してはそのような方々に支援いただいております。
KP:
最後に全国の泉皓ファンにコメントをお願いします。
佐々木:
「泉皓」には、「美しい物を作り続けられるように」という意味が込められています。
作ることはできなくなりましたが、「泉皓」の名がいつまでも皆さんの心に残り続けてくれれば嬉しいです。
今までご愛顧いただき、本当にありがとうございました。
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