▼剣道普及モデル▼
「剣道未開の地ミャンマーへの挑戦」
〜剣道教士七段 出崎 忠幸(1)〜
”海外での剣道普及”といっても、既存のコミュニティに対して現地駐在員や一時的な指導者を派遣する形に頼っているのが実情です。
警視庁特練出身にして全日本剣道選手権3位という輝かしい経歴を持ちながら、未開の地ミャンマーで”ゼロ”から剣道指導を行っている出崎先生に、その道のりをお聞きしました。
(以下 KENDO PARK=KP 出崎忠幸氏=出崎)
-出崎忠幸-
1963年生 長崎県宇久島出身
高校卒業後の1980年に警視庁に奉職し、特練に所属。
警視庁退職後、綜合警備保障株式会社(ALSOK)に転職。
2012年にミャンマーに渡航。
2013年、日本人オーナー企業による清掃業と警備業の立ち上げに協力し、100名以上の社員を育成。
2016年、日本人パートナーと新規に清掃、警備会社「DEZAKI」を創業。
大手日本企業、ミャンマー企業各社に警備員を派遣。現在100名の雇用。
並行して、日本料理店「武士道/BUSHIDO」を経営。
現在ヤンゴン日本人会剣道部代表にして、ミャンマー剣道連盟設立者。
主な戦績に、全日本剣道選手権出場3回、同3位1回。
全国警察剣道大会Ⅰ部優勝4回、国体優勝、全日本実業団高壮年剣道大会優勝ほか。
|無名選手から全日本選手権入賞
KP:
出崎先生は警視庁特練出身でいらっしゃるとのことですが、学生時代から有名選手だったのですか?
出崎:
いいえ、強豪校どころか、ちゃんとした剣道部もない高校から警視庁に奉職しました。
それまで剣道は少しやっていたものの、中学時代までは野球を主としてやっていました。
そこから親の進言もあり、高校進学を機に剣道に本格的に取り組むようになりました。
とはいえ高校に正規の部活動として剣道部がなかったので、自分で同好会を作って活動していました。
KP:
その当時から、”行動力”がずば抜けていらっしゃいますね。
出崎:
元来”やると言ったらやる”性格なので、高校卒業後も本格的に剣道ができる環境を探していました。
その中で、当然のように警察官になるという選択肢に行き着きました。
結果として、警視庁には所謂”特練”等ではなく、一般の警察官として採用頂きました。
強豪選手ですらない私は、完全に”一新人警察官”という位置付けであったと思います。
ただ、高校時代から近県の有名選手には勝ったりしていたので、自分の中にはそれなりにやれる自信はあったと思います。
画像出典:クルンテープ剣友会公式HP
KP:
そこから名門警視庁の特練所属となります。
出崎:
ちょうど警視庁に奉職するころ、中田琇士(なかたゆうじ)先生が全日本選手権で優勝(1981年)なさっており、先生を目標に頑張ろうと考えていました。
とはいえ練習環境が与えられていたわけではないので、素振りなどの自分でできる稽古を地道にこなしました。
そうしているうちに色々なことが重なって、特練への道が開けました。
と言いますのも、
・剣道訓練の教官が船津晋治先生(現教士八段)のお兄さんであり、同じ長崎県出身であった。
・現場研修の際に、殺人事件現場等を見て「自分には現場は無理」と感じた。※1
・警察学校クラス対抗の剣道大会で優勝した。※2
・警察学校卒業後、赤羽警察署に卒業配置されたため道場に行くことができた。
・「やよい祭」(警察・皇宮・消防の殉職者慰霊祭)の奉納試合で優勝した。 等々
※1:「剣道を専門にできる環境に身を置きたかった」とのこと。
※2:当時の警察学校同期は2000人くらいおり、後に特練所属となる選手も多数出場していた。
このようなことが重なり、私を含めた30名ほどが特練候補生として召集されました。
その後振り落としがあり、2ヶ月後には10名ほどになり、最終的には4名が残りました。
これにより、正式に警視庁特練所属となりました。
KP:
そこから警視庁特練副主将まで務められました。
出崎:
入った当時は、主将の濱崎満先生(現範士八段)をはじめ、現在の全日本選抜剣道八段優勝大会に出ているようなメンバーが揃っていました。
近い年齢でいうと、寺地賢二郎先生(現警視庁)・恩田浩司先生(現警視庁)などがおり、選手層でいうと相当なものであったと思います。
現に、私が選手として公式戦に出始めたのは29歳の時でしたので、今考えると生き残るのも大変なチームでした。
30歳の時に全日本選手権で3位(1993年)となり、副主将にも任命いただきました。
ちなみにこの時の全日本選手権は、優勝が宮崎正裕先生(現神奈川県警)で、準優勝が宮崎史裕先生(現神奈川県警)でした。
警視庁には強い若手もどんどん入ってきますので、本当に大変でした。
ちょうど私が副主将の時に、若手有望株として岩佐英範先生(現警視庁)や原田悟先生(現警視庁)がいました。
|剣道未開の地を切り開く
KP:
そこから警視庁を退職なさいます。
出崎:
剣道では大変恵まれておりましたが、自分のキャリアや人生には漠然と不満を感じていました。
そこで公務員では身につかないスキルを身につけようと、ALSOKに転職をすることにしました。
ALSOKで、警備のノウハウやビジネスの基礎を学びました。
勤め始めてから何年か後に、同僚から誘われて出場した全日本実業団高壮年剣道大会で優勝を果たしました。
この時、自分の中では何か剣道に対して”一区切り”ついた気がしました。
KP:
そこからミャンマーへ渡る経緯を教えてください。
出崎:
個人事業で整体院をやっていた時に、一度ミャンマー人の方に施術したことがありました。
その方から「これならミャンマーでも流行ると思う」と言われ、それならと一度視察に行ってみることにしました。
2012年8月に1ヶ月程度ミャンマーへ渡航しましたが、その時はまだ軍事政権下で、感覚としては日本の昭和40年代に似ているなと感じました。
逆に言うと、自分が日本で生きてきた時代の変化が、ミャンマーにも起こるであろうと想像がつきました。
2013年あたりからは、当時のオバマ大統領や安部首相が来訪するなど、海外の要人も数多く来るようになりました。
当時はまだ政権交代前でしたが、すでに経済市場としては開放の方向へ向かっていたと思います。
KP:
現在剣道指導も開始さなっていらっしゃいますが、現地に剣道チームはあったのでしょうか?
出崎:
剣道に関しては、「無」と言って良い状況でした。
昔孤児院等で指導していた時期もあったそうなのですが、現地ミャンマー人で剣道をやっている人はゼロでした。
とはいえ日本企業からの駐在員はそれなりにいたので、”ヤンゴン日本人会”には剣道部がありました。
日本人駐在員やその子供を中心としたクラブですが、そもそも現地に何のコネクションもなかったので、まず日本人会の剣道部で指導を行うようになりました。
|運営から:
「やるといったらやる」という行動力に、大変感銘を受けました。
それと同時に、海外での剣道普及における大変貴重な事例ではないでしょうか。
実際に、ミャンマーで剣道とビジネスを立ち上げたストーリーもお聞きしましたので、そちらは次回掲載いたします。