「やろうと思えば何だってできる」
〜山川泰二(やまかわたいじ)〜
職業「大工」として全日本剣道選手権に出場し、YouTubeで稽古動画を配信する等、剣道界でも異彩を放つ山川氏。
「警察・教員でないからこそ伝えられること」を探り、独自の取り組みを行なっていらっしゃいます。
かつて教員志望であったところから、「やろうと思えば何だってできる」という自由なマインドセットを手に入れるまでの、異色の経歴をお聞きいたしました。
(以下 KENDO PARK=KP 山川泰二氏=山川)
-山川泰二(やまかわたいじ)-
1991年生 沖縄県出身
小学校2年生の時に「志道館」(@沖縄・現在閉館)で剣道を始める。
地元中学校を卒業後、県立那覇高校へ進学。
高校3年時に、全国選抜高校剣道大会でベスト16および優秀選手賞受賞。
インターハイには、個人・団体で出場。
高校卒業後、大阪体育大学へ進学。
大学4年時に全日本学生選手権および優勝大会に出場。
大学卒業後、清風高校(@大阪府)に教員として赴任。
その後教員を退職し、沖縄県に戻る。
2020年7月にYouTubeチャンネル「山川道場」を開設。
2021年沖縄県予選を勝ち抜き、第68回全日本剣道選手権に出場。
現在、職業「大工」であり剣道五段。(2021年現在)
|伝説の名門道場「志道館」
KP:
剣道を始めたきっかけを教えてください。
山川:
兄と姉が剣道をやっていた関係で、小学校2年生の時に道場へ入門致しました。
あまりに自然な流れで入門したため、入門当初はよくわかっていなかったのですが、当時全国でも強豪として知られていた「志道館」道場(現在は閉館)でした。
父も母も剣道をやっていたわけではありませんでしたが、結果として私たち兄弟全員が志道館で剣道をやることになりました。
KP:
道場での稽古はいかがでしたでしょうか?
山川:
古堅先生の指導のもと、稽古は非常に厳しいものでした。
ちょうど子供の腰の高さあたりに窓があったのですが、懸かり稽古になるとそこから外に放り出されることもあるほどでした。
特に、近所に道場の先輩が通う中学校があり、その先輩が稽古をつけにやってきた時は、ひたすら打ち込みと懸かり稽古が続き、子供ながらに本当に嫌だった記憶があります。
結果として、兄や姉と違って私は稽古をサボりがちだったように思います。
KP:
古堅先生の指導は、どのようなものだったのでしょうか?
山川:
道場の部訓が「正道」であり、剣道は基本を大事にするスタイルであったと思います。
日頃の生活態度にも厳しく、遠征や練習試合では細かく時間割が決められていて、それに遅れるとそのまま置いていかれるような形でした。
稽古は基本に忠実でありながらも、錬成大会を重ねて技術を磨いていくスタイルでした。
本大会の結果よりも、稽古と錬成大会を通した取り組みやプロセスを大事にしていたように思います。
KP:
そのような厳しい稽古に、ついていくのは大変なように思います。
山川:
確かに稽古は厳しかったですが、いわゆる「殴る蹴る」のような類のものではありませんので、稽古が始まれば何とかついていくことができました。
また当時は、基本組・1部・2部・3部といったレベル別のクラス分けがあり、それが子供の私にとってはモチベーションになっていたと思います。
偶然にも先生からの指示で、比較的早く昇格していったのですが、2部に昇格してからは別世界のような稽古でした。
先述の通り、全国でもトップレベルの道場でしたので、トップチームとそれに準ずるカテゴリからは、ついていくのもやっとな状況でした。
|映像研究で強くなる
KP:
小学生の時に、剣道からは一時離れたそうですね。
山川:
小学校4年生の時に、全国大会の選手に選んでいただいていたのですが、その直前に大きな怪我をしてしまいました。
入院を機に一度剣道を離れたのですが、稽古が厳しかったことや全国レベルに戻れるのかの不安もあり、再度稽古に行く気持ちにはなれませんでした。
結局そのまま、小学校時代は剣道から離れたままでした。
KP:
そこから剣道に復帰なさった経緯を教えてください。
山川:
サッカーをやりたかったため、中学ではサッカー部に仮入部していました。
その一方、中学校の剣道部顧問が姉と兄を指導していたため、剣道部に猛烈に勧誘されていました。
結局、剣道部にも入部届だけ提出し、たまに稽古に参加していました。
KP:
中学の部活動はいいかがでしたでしょうか?
山川:
先輩が卒業すると、男子は同級生の1名と私の2名だけになってしまいました。
その頃道場(=志道館)の閉館も決まり、学校も道場も組織の縮小が目立つようになりました。
そのため稽古への取り組みも、より一層まばらとなっていきました。
しかし、中学校1年生の終わりに、地元のスポーツ少年団の市民大会に出たことで、転機が訪れました。
何となく、小学校時代の貯金で「優勝できるかな」と思っていましたが、準決勝で敗退いたしました。
そこで初めて、「悔しい」という想いが芽生え、剣道へのスイッチが明確に入ったと思います。
KP:
そうは言っても、部員も少ないと思いますが、どのように剣道に取り組んだのでしょうか?
山川:
稽古を行いながら、剣道日本を読み漁ったり、付録のDVD観る等、とにかく映像での学習を行いました。
当時はYouTubeにも鮮明な映像が無かったため、顧問の先生が持っていた映像を端から見せて頂きました。
当時の出版映像には、高校剣道の映像素材が多かったため、自然と高校剣道を研究することが多かったと思います。
特に剣道日本の付録についていた「高校日本一の稽古 九州学院高校」という映像は、何百回も繰り返し観ました。
あまりにも何回も観ていたため、遂には「九州学院へ行きたい」と思うようになりました。
|研究が生んだ大きな成果
KP:
高校は沖縄の県立高校に進学なさいました。
山川:
九州学院への憧れがあったのですが、目立った実績もない私に声をかけていただけるわけもなく、それであれば地元の高校に進学したいと考え、県立那覇高校に進学いたしました。
県立で進学校ではありますが、当時は大浦勲先生(現・嘉手納高校)が監督を務められていて、男子だけで部員が30名いる強豪チームでした。
1つ上の学年の先輩が極端に少なかったため、「3年生に勝てばレギュラーになれる」と考えていました。
そこで3年生を一人一人研究し、技の癖や攻略法を日々考えていました。
この辺りは、中学時代の映像研究が身に付いていたのだと思います。
また大浦監督が、九州学院の米田監督と仲が良かったこともあり、九州学院高校とは何度も練習試合をさせて頂きました。
九州の強豪校とも、練習試合を数多く組んで頂きました。
とはいえ沖縄という離島でもありますので、遠征するにもお金がかかります。
そこで、部員が多いことを活かして招待合宿を主催する等、工夫して試合数を確保していました。
KP:
離島の県立高校ながら、大きな成果を挙げられました。
山川:
幸運にも、1年生でインターハイの団体戦に出場させて頂きました。
その頃から、大学から声をかけてもらえるように、高校で実績を出したいと考えるようになりました。
高校3年時には全国高校選抜に出場し、大将として予選リーグを突破してベスト16にまで進出いたしました。
幸運なことに優秀選手賞まで頂き、「離島の公立校」という珍しさも手伝ってか、剣道雑誌等にも取り上げて頂きました。
夏のインターハイには、個人団体双方で出場しました。
しかしそういった舞台では、「日本のトップ選手」との差を感じていました。
|人生で最も厳しい環境
KP:
大学は大阪体育大学へ進学なさいました。
山川:
姉が大阪体育大学の剣道部に所属していたご縁もあり、神﨑浩先生から声をかけて頂き、大阪体育大学へ進学致しました。
道場や稽古の様子は映像で何となく知っていたため、「とてつもなく広い道場で大人数での稽古」というイメージでしたが、実際入学してみると学年あたり男子部員は10名程度で、男女部内合計でも80名と、数百名を抱えるような大所帯ではありませんでした。
その分、濃密に稽古ができる環境であったと思います。
KP:
大学での稽古はいかがでしたでしょうか?
山川:
稽古メニューは割とオーソドックスで、切り返し・基本打ち・技練習・打ち込み・地稽古・懸かり稽古と、特別なメニューがあるわけではありませんでした。
朝稽古も週3日と、とにかく稽古量をこなすようなスタイルではなく、稽古メニューの中で自分で工夫していくことが求められる環境でした。
それでも、著名な先生方や有名選手と剣を合わせることで、剣道観が丸ごと変わりました。
本気で打っていっているのに、かわされているのではなく、完全に見透かさされている感覚がありました。
そういった「元立ちの妙」を強く感じ、「打ち込みや懸かり稽古こそ剣道の本質では?」と考えるようになりました。
それまでは、「キツいことをやらされている」感覚でしたが、打ち込みや懸かり稽古こそ本気と本気のぶつかり合いであり、懸かり手と元立ち双方の重要性を認識できました。
そこから「しっかり構えて大技を打ち込む」というような、いわゆる「大体大の剣道」に近付いていったと思います。
KP:
大学での稽古はいかがでしたでしょうか?
山川:
当時は先輩後輩の上下関係が厳しく、生活面は本当に大変でした。
寮に入寮するのですが、2学年上の先輩と一緒の部屋で、生活面の雑用等が多いのはもちろん、門限と共に夜中までミーティングがあったりと、かなり管理された学生生活であったと思います。
もちろん学生当時の話ですので、現在はかなり変わっているとは思います。
また先輩方からは常々、「そんなことでは寒稽古を乗り切れない」と言われていました。
1年生のうちは「何のことだろう」と思っていましたが、1年生の冬にはその厳しさを身をもって体験することになりました。
大阪体育大学の寒稽古は伝統的に大変厳しく、「切り返し40分→懸かり稽古40分→地稽古40分→地稽古40分」の通し区分稽古を、約2週間にわたって行います。
あまりの厳しさに意識が朦朧となり、「ああ、このまま死ぬんだな」とさえ思いました。
確かに高校までの稽古も大変だった面はありましたが、大阪体育大学の寒稽古は群を抜いていました。
人生ベースで考えても、あの稽古よりも辛かったことなど無いと思います。
|教員を目指す
KP:
卒業後のキャリアについて教えてください。
山川:
卒業後は、教員を志望していました。
大学で無事教員免許を取得したことから、清風高校(@大阪府大阪市)に教員として赴任いたしました。
赴任当時、やや分裂しかけていた剣道部の立て直しのため、中寛和先生(国士舘大学出身・現剣道八段)が指導にいらっしゃっていました。
中先生は、かつて清風高校を強豪校に押し上げた先生で、清風高校剣道部の礎を築いた方でもあります。
中先生は、部員一人一人に個人面接を行い、コミュニケーションを取りながらあっという間に信頼関係を築いていらっしゃいました。
稽古時間も「集中して短く」という考え方で、常に「どうしたら集中できるか」を部員や私に考えさせました。
一方で部員との信頼関係があるため、毎日朝練習を行う等、稽古量自体は徐々に増えていき、最終的には大学時代よりも逆に稽古量が多くなったと思います。
結果として、あっという間に清風高校は優れた実績を上げるまでになりました。
一方で、教員という仕事を学んでいくうちに、学校にもよりますが「体育科」の中での立場が非常に大事であることを学びました。
将来的には沖縄で教員をやりたかった気持ちもあり、思い切って1年で清風高校を辞めました。
KP:
その後、沖縄に戻られたのですか?
山川:
沖縄に戻りまして、非常勤講師をしながら教員採用試験を受け始めました。
とはいえ他の地域と同様、教員採用試験の応募倍率は極めて高く、なかなか受かりませんでした。
最終試験まで行くこともありましたが、結局受からないまま5年が過ぎました。
そんな折に、改めて「教員が本当にやりたいことなのか」と自問自答するようになりました。
そう考えると、必ずしも教員がやりたいわけではなく、「人に何かを伝えることがしたい」ということに気付きました。
そこで自分に何ができるか、世の中について色々と調べ始めました。
教員に未練が無くはなかったものの、退路を絶つため、教員採用試験の受験をきっぱり辞めました。
|YouTubeでの発信
KP:
それからどのようになさったのですか?
山川:
知人の紹介で、大工仕事を始めました。
未経験でありましたが、やってみたら楽しく、ちゃんと手に仕事を付けたいと考えるようになりました。
並行して、世の中のテクノロジーやビジネスについても勉強をしていくうちに、「やろうと思えば何でもできる」と思えるようになりました。
これまでの自分は、教員になることに捉われ、視野が狭かったことに気付かされました。
そこで、もっと「人間を大きくしないといけない」と考えるようになりました。
KP:
YouTubeでの稽古発信を始めたきっかけを教えてください。
山川:
「教員じゃなくても影響を与えられるのでは?」と考え、2020年8月から「山川道場」というYouTubeチャンネルを立ち上げました。
チャンネルを立ち上げるにあたり、何を発信しようか迷っておりましたが、まずは大阪体育大学で学んだ「かかる稽古」を発信して行こうと思い、稽古や試合動画のアップを始めました。
もちろん、いわゆる「YouTuber」っぽくサムネイルや動画編集をすることも考えましたが、「ありのままの稽古」を伝え、「かかる稽古」をそのまま発信したいという考えのもと、現時点ではほとんど編集せず動画配信をしています。
|「大工」が全日本選手権に出場
KP:
そんな中、沖縄県代表として全日本剣道選手権に出場なさいました。
山川:
ただ稽古を発信するよりも、ちゃんと実戦の場でも戦っている姿を見せることで、「かかる稽古」の説得力が増すのではないかと思いました。
そうして試合動画も発信するうちに、色々な方から応援を頂けるようになりました。
注目されることでプレッシャーもありましたが、応援の力もあり全日本剣道選手権の沖縄県予選で優勝することができました。
憧れの全日本の舞台に立つことができ、大変嬉しかったと共に、知らない方からも声をかけていただけるようになり、発信してよかったなと感じています。
本大会には、「かかっていく姿勢」を貫きたいと考えて望みました。
結果として、本戦でも自分らしい「かかる剣道」ができ、1回戦を突破することもできました。
私の剣道人生においても、本当に貴重な体験となりました。
KP:
今後のビジョンを教えてください。
山川:
今後は、YouTubeでの発信を強化していきたいと考えています。
現在は剣道関連のYouTubeチャンネルも数多く存在しますが、その中で「みんなの先輩であり後輩でもある」というポジションを築いていきたいです。
というのも、剣道関連の動画を見ると、高名な先生による指導動画のようなものや、エンターテイメントに振り切ったものといった両極端なものが多いと感じています。
その一方、私は大阪体育大学という大きなバックボーンを持ちながら、警察官でも教員でもないため、自由に発信できる立場にあります。
そういった意味でも、「みんなの先輩・後輩」として近い距離で伝えられることがあるのではないかと考えています。
私は教員を諦めたところから、「やろうと思えば何でもできる」というマインドセットができました。
私の剣道を発信することで、そういった部分を伝えることができたら良いと思います。