「ギリシャに日本剣道を根付かせる」
ペリステリ剣友会 館長 新井良
名門公立校である浦和高校から、一般受験で筑波大学へ進学し、現在はギリシャで道場を運営する新井良氏。
常識にとらわれないキャリアを歩みながら、変わらない「剣道への想い」とその足跡を伺いました。
(以下 KENDO PARK=KP 新井良氏=新井)
-新井良-
1987生 埼玉県出身
小学2年時に上尾警察署ひまわり少年剣道教室(@埼玉県上尾市)に入門し、剣道を始める。
中学卒業後、県立浦和高校に進学。
高校3年時に、選抜予選・関東予選・インターハイ予選の全埼玉県予選で団体優勝。
インターハイに個人・団体で出場。(浦和高校の出場は第1回大会以来)
団体戦でベスト8に進出。
高校卒業後は、一般入試で筑波大学体育専門学群へ進学。
大学4年時に全日本学生選手権大会出場。
大学卒業後は筑波大学大学院へ進学。
在学中に、剣道指導のためギリシャへ長期滞在。
大学院卒業後、再度ギリシャへ渡航。
地元道場で剣道指導に従事した後、アテネに「ペリステリ剣友会」を創設。
道場を運営する傍ら、スウェーデンナショナルチームのコーチも兼任。
アテネ大学大学院在学中
剣道錬士六段(2020年11月現在)
|剣道がアイデンティティ
KP:
剣道を始めた経緯から教えてください。
新井:
小学校2年生の時に、2歳上の兄に連れられて、「上尾警察署ひまわり少年剣道教室」(@埼玉県上尾市)へ行ったのが始まりでした。
実をいうと、それまでは野球がやりたかったのですが、地元の野球チームが小学校3年生からしか受け入れておらず、そこまで待てずにたまたま剣道を見に行ったのがきっかけでした。
初めて見る剣道に衝撃を受け、父によると最初からずっと正座して稽古を見るくらい、すぐに熱中していたようです。
そのまま道場に入門し、稽古に参加するようになりました。
とはいえ稽古は週2回くらいで、稽古内容もそこまで厳しくなかったように思います。
当時は特に強豪チームというわけではなかったですが、小学校4年生の時に学年別の県大会で3位に入賞しました。
KP:
中学生になると受験もあると思うのですが、剣道の稽古はどのようになさっていたのですか?
新井:
中学生になると、逆に猛烈に剣道に打ち込むようになりました。
中学校の部活だけでは飽き足らず、道場の稽古にも行きながら、小学校時代から指導いただいている渋谷忠幸先生(現・上尾警察署嘱託教師・剣道教士七段)に連れられて、周辺各地の道場へ、度々出稽古に行くようになりました。
一日2部練習は当たり前で、週末には3部練習なんかも普通にこなしていました。
両親に送り迎えしてもらっていたので、本当に負担をかけていたと思います。
そのような生活であったため、勉強は一切やっていませんでした。
自分でも剣道がアイデンティティになっていたので、「剣道をするために私立の強豪高校に行きたい」などと漠然と考えていました。
そんな折、中学校2年生の2学期あたりに父と進路相談をしている際に、「剣道も良いけどたまには勉強してみたら?」と言われました。
「またにはやってみるか」というくらいの感覚で、1週間程度集中して勉強し、定期テストに臨みました。
すると当たり前に成績が急上昇し、それまで学年280名中3桁番台だったのが、50番台に浮上しました。
「これは面白い」と感じ、テスト前には集中して勉強するようになり、3年生の4月からは塾にも通うようになりました。
KP:
そこから、全国の公立でも屈指の進学校である浦和高校に進学されます。
新井:
中学校の2つ上の主将であった先輩が浦和高校に進学しており、たまに稽古にも来てくださっていました。
私は全く高校について知らなかったので、その先輩から高校の様子を聞いて「浦和高校に行きたいな」と単純に思っていました。
そこである時受験雑誌を見てみると、浦和高校が一番最初のページに出ていて、偏差値表でもとんでもなく上位の位置にいることがわかりました。
実は当時、浦和高校は全国の公立高校の中で東京大学進学率トップを叩き出しており、周囲にも「浦高に行きたい」と言っても笑われるような状況でした。
そこから猛勉強を行い、何とか一般受験で浦和高校に進学いたしました。
当時、埼玉県の公立高校受験には、内申点と面接で合否を決める推薦入試もあり、中学時代に県内で有名な存在であった竹越充(早稲田大学→現・NTT)をはじめ、またまた同期にハイレベルなメンバーが揃っていました。
|進学校から果たした快挙
KP:
高校では、どのような稽古内容だったのでしょうか?
新井:
津坂宗秀先生(現・大宮東高校教諭・教士七段)の指導の下、自主性を重んじた稽古でした。
稽古の最初の切り返しと、最後の掛かり稽古だけは決まっていたのですが、それ以外の技練習は、津坂先生から「仕掛け技」「一本打ちの技」等、大まかなカテゴリだけ指定いただき、実際に何に取り組むかは、各自で決めて行うスタイルでした。
稽古も2時間程度で、別段長いわけでもなかったですが、選手同士で稽古後に自主練等を行っていました。
全国屈指の進学校であるため、部員の中には並行して予備校に通ったりしていた者も多かったですが、私は剣道に打ち込みたかったため、自ら朝練も行って剣道中心の学生生活を送っていました。
KP:
そこから、インターハイでは快挙を達成なさいました。
新井:
2学年上の3年生が引退した時点から、レギュラーとして試合に出るようになりましたが、最初は強豪校相手にはなかなか勝てませんでした。
当時は、2004年の埼玉国体の開催年でもあり、県内でも強化を行っていたのですが、強化指定を受けていたのは本庄第一高校と松山高校で、浦和高校からは竹越が強化指定選手に入っているだけでした。
しかし最上級生になると、チームとして徐々に勝てるようになってきて、そのあたりから練成会や練習試合でも、関東の強豪チームとも対等に戦えるまでになっていきました。
最終的には、選抜予選・関東予選・インターハイ予選のいずれも、埼玉県で優勝を果たしました。
浦和高校のインターハイ出場は、第1回大会以来51年ぶりで、剣道時代や剣道日本等、剣道雑誌にも取り上げて頂きました。
全国選抜大会では序盤戦で敗退していたため、インターハイでは決勝リーグ進出と上位進出を目指していました。
本戦では順当に予選リーグを勝ち抜き、ベスト16では鹿児島商業高校を破ってベスト8に進出致しました。
ベスト8で九州学院高校に敗退致しましたが、全国トップレベルでもやれる手ごたえを感じた大会でした。
こういった状況を受け、学校からも後押しを頂いて、例年では出ていなかった玉竜旗大会等にも出場させていただきました。
KP:
大学進学で筑波大学を選択されたのはなぜですか?
新井:
「全国屈指の進学校」という環境にあっても、私の軸は剣道にありました。
またインターハイの個人戦で、同大会で3位になった亀田健一郎選手(東海大第四高→国士館大)に敗退したのですが、延長戦までもつれる激戦で、個人的にも全国レベルである程度やれる自信がついていました。
そのようなことも踏まえ、強豪大学に進学し、将来は教員になりたいと考えるようになりました。
とはいえ、「剣道推薦」のようなものを頂ける状況でもなかったため、剣道部を引退してから本格的に勉強をスタートさせました。
最終的には、一般入試を経て筑波大学の体育専門学群に入学いたしました。
筑波大学は「全国から剣道エリートを集めている」というイメージがあるかもしれませんが、実際は「どうしても筑波で剣道を学びたい」ということで、一般入試で入ってくる部員も数多くいます。
同期にも、一浪の末に一般受験で入学し、その後公式戦で活躍していた者もいました。
KP:
筑波大学の剣道はいかがでしたか?
新井:
インターハイを経て、それなりに自信はなくはなかったのですが、実際に入ってみると想像をはるかに超える世界でした。
先生や先輩方は剣道雑誌で見るような有名人ばかりですし、実際竹刀を交えてみても、あまりのハイレベル具合に驚きました。
それに加え、もともとヘルニア持ちであったこともあり、春合宿に参加したところから腰痛が悪化し、入院やリハビリ等も経て、結局1年生の時は満足に稽古ができませんでした。
当時の稽古内容は、準備運動と素振りの後、地稽古主体のメニューでしたが、稽古の最後に下級生が上級生にかかる稽古があり、その稽古は大変厳しく、先輩方には本当に鍛えて頂きました。
また1学年下には西村英久(現・熊本県警)や遅野井直樹(現・警視庁)が入ってきたため、私の学年としてもより一層まとまる必要がありましたが、同期主将の松澤孝憲(現・栃木県教員)がチームをよくまとめてくれていたと思います。
私個人としては、4年生の時に何とか関東学生選手権大会に出場することができ、そこを勝ち抜いて全日本学生選手権大会に出場致しました。
一方で、団体戦のメンバーには入ることができませんでした。
KP:
大学院に進学なさったのはなぜですか?
新井:
幼少のころから剣道をアイデンティティの軸として生きてきましたが、大学3年生の終わり頃に無性に不安を感じるようになりました。
というのも、それまで試合にも出られていない上、周囲にすごい選手が多数いる中、「このまま、彼らと同じように剣道を軸に考えていて良いのだろうか」と考えるようになりました。
そこで、彼らとは少し違うことをしようと、一時就職活動をしたこともありました。
しかし最終的には剣道部生活を全うし、教員免許も取得できたものの、今後のキャリアをどうするのか決めかねていました。
そこでまずは勉強しようと考え、筑波大学の大学院に進学する選択をしました。
大学院ではスポーツ選手の「反応時間」を研究テーマとし、剣道選手の反応時間を、熟練者と一般剣道家でどれくらい異なるかの研究を行いました。
実験の結果、測定装置に対する反応時間は同じでしたが、実戦想定で測定すると熟練者の方が予備緊張(次の動作を想定して筋肉が事前に若干の緊張状態となる現象)も無い上に、反応速度も遅いという結果でした。
この結果から導き出した仮説は、熟練者は実際に打突が来た際に、判断を誤らないようにあえてリラックス状態から遅れて反応している可能性があることがわかりました。
このような研究を経て、修士課程を修了致しました。
|ギリシャに導かれる
KP:
ギリシャとの関わりはいつからでしょうか?
新井:
大学院時代に、香田群秀先生(現・筑波大学体育専門学群教授・筑波大学剣道部部長・範士八段)のご紹介でギリシャへ剣道指導に行く機会を頂きました。
元々ギリシャで柔道の道場を運営していた方が、剣道もやりたいとのことで筑波大学の柔道の先生に連絡が来たことがきっかけとのことでした。
剣道指導と言っても、数日滞在するようなものではなく、3か月の長期にわたり一から指導を行うというものでした。
長期滞在にあたりギリシャについて全くの無知であったため、事前に言語や文化を学んでおく必要があると考え、友人の留学生に頼んでギリシャ人の方を紹介いただきました。
彼によると、ギリシャ語が公用語ではあるが、大変難しい上に、ほとんどのギリシャ人は英語を話せるとのことで、英語をしっかり勉強することを勧められました。
そこで、剣道部にいた留学生に頼んで英語を教えてもらい、ギリシャに渡航いたしました。
KP:
現地はいかがでしたか?
新井:
日本と文化や常識が何もかも異なり、カルチャーショックを受けました。 幸運なことに、住居や生活面は先方の道場に用意頂いた上、指導の面では「先生と生徒」という関係値もあって、ジェスチャーや簡単な英語で問題なく剣道を教えられていました。
一方で日常生活では、話すスピードが早く、なかなか会話に参加できず、渡航当初は大変な想いをしたのを覚えています。
また、当時はギリシャショックが起こる少し前くらいの時期で、ギリシャ国内の放漫な雰囲気が最高潮な時期であったと思います。
例えば、
・時間を守らない
・日常的にストライキがある
・恒常的に交通機関が遅れる 等
日本では考えられないことを、多数体験することができました。
しかし不安や辛さはなく、むしろ「新しい世界を知ることができた喜び」のほうが大きかったように思います。
KP:
帰国なさってから、ギリシャへ再渡航する経緯を教えてください。
新井:
3か月の滞在を経て、日本に帰国しました。
そのままキャリアを迷いながらも、教員になる道を探りましたが、準備期間が短かったこともあり、なかなかうまくいきませんでした。
そうしているうちに、「自分の知らない世界に身を置きたい」という気持ちが強くなり、その段階でギリシャへ再渡航することを決意しました。
とはいっても、今度は何のあても無い状況でしたので、半年間アルバイトで資金を貯める傍ら、現地道場からは「剣道を指導してくれたら部屋は貸す」と言ってもらっていたので、大学院修了後にギリシャへ再渡航致しました。
生活に関しても、「家さえあれば何とかなる」と考えていました。
前回の渡航で英語はある程度話せるようになっていたため、剣道教えるのと並行して、現地のギリシャ語学校に行くことにしました。
しかし語学学校のクラスメイトは、ギリシャ語以前に皆英語がネイティブレベルであり、まずは英語を再度学び直すことにしました。
結果として、ヨーロッパ言語共通参照枠である「CEFR」の、最上位レベルC2(=母語話者と遜色のない熟練者)に相当するECPE (Examination for the Certificate of Proficiency in English)に合格しました。
その頃には、現在の妻であるナターシャと知り合っていましたが、(会ったときは、まだ剣道をやっていませんでした)彼女は日本語が堪能であるため、日本のテレビ局や新聞社等がギリシャへ来た際の、現地コーディネート等を手がけており、その仕事を手伝い始めました。
ちょうど当時、ギリシャショックの発生や、サッカーワールドカップで日本がギリシャと対戦していたこともあり、日本からのメディア関連の仕事に数多く従事させていただきました。
|日本の剣道を根付かせる
KP:
そこから現地道場を開設なさいました。
新井: アテネの道場で剣道指導を行っていたのですが、剣道に対してとなると、どうしても熱くなってしまう面があり、ギリシャ人ののんびりした気質とは必ずしもマッチしない面がありました。
また「結果が大事」というカルチャーですので、YouTube等で見た技をいきなりやろうとしたり、最初から剣道具(防具)をつけて打ち合いをしようとしたり、基本を定着させることに難しさを感じていました。
その中で、筑波大学で剣道を専門的に学んできた自分にとって、ギリシャでの役割を改めて考えるようになり、2015年に所属道場から独立して、アテネ市内に「ペリステリ剣友会」を設立致しました。
KP:
道場はどのように運営されているのですか?
新井:
設立当初は、私についてきてくれる方を中心に、市内の施設を借りて稽古を行っていました。
そこからは、現地の大使館イベントでのデモンストレーションや、サムライコンテンツを見て興味を持ってくれた人が入門してくれるケースもありますし、他クラブから自ら移ってきてれる方もいらっしゃり、少しずつメンバーが増えていきました。
海外の剣道業界ではよくあることですが、剣道立ち上げフェーズではチーム同士のしがらみや派閥争いのようなものが日本以上に激しいため、こちらから声をかけることはしていません。
その中でも、本質的な指導を求めて私の道場へ来てくれる方も多く、大変ありがたいと感じています。
稽古では、とにかく安全にやることと、基本の反復練習を重視しています。
先述の通り、どうしても最初から打ち合いや技に取り組みたがる傾向にありますが、それだと安全性も確保できない上、剣道の本質的な部分に触れることができません。
反復練習を通して、彼らには「過程を大切にすること」を伝えたいと考えています。
KP:
現在も様々な取り組みや研究をなさっていらっしゃいます。
新井:
現地指導を通して、「日本剣道とギリシャ剣道の本質的な違いは何だろう?」と考えるようになりました。
というのも、現地の稽古や試合を見るうち、技術面や審判レベル等を除いても、「着眼点」の違いを感じていました。
そんな折に、2018年頃にアテネ大学体育学部の学部長と知り合い、その関係でスポーツ哲学の分野に興味を持ちました。
そこで現地のアテネ大学大学院へ進学し、現在研究にも従事しています。
研究では「結果を重視する」気質はどこから来ているかを解き明かすため、「騎士道」から派生したフェンシングと、「武士道」から派生した剣道を比較研究しています。
私自身も実際にフェンシングに挑戦し、その違いを体感しています。
一番大きな違いは、フェンシングは「当たった・当たらない」で結果が決まるため、「いかに当てるか」という、ある意味客観的で定量的な部分が重視されます。
一方で剣道は「間」や「機会」、「気剣体の一致」といった、ある意味主観性が強く、定性的な部分が重視されます。
ここが、日本とギリシャでの剣道に対するとらえ方の違いではないかと考えています。
他の事象でも、欧州における「結果を重視する気質」が見て取れます。
例えばサッカーの本田圭佑選手は、オランダ2部リーグへ降格した際、チームへの貢献は評価されず、ゴールやアシストといった目で見える結果が評価されることに気づいて、プレースタイルを変えたと語っています。
また語学のテストなどにおいても、ギリシャではテストの結果を返却して特にフォローアップや復習を促す文化はありません。
これは、「どういう過程であっても、結果が導き出せればOK」というスタンスの表れだと思います。
もちろんこれらは、国やエリア上での違いですので、良し悪しということは一切ないですが、「日本の剣道」を伝える上では、しっかりと認識すべき違いだと考えています。
KP:
今後のビジョンを教えてください。
新井:
ギリシャに「日本の剣道」を根付かせたいと考えています。
それは単なる価値の押し付けではなく、ギリシャの価値観とバランスも取りながら、「過程を大切にする」ことを伝えていきたいです。