【剣道で学ぶべきは 人斬りではなく、心の置所】村上彰(東山子)

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2018年4月25日発売の剣道JAPAN5月号より、KENDO PARK独占で記事を先行配信いたします。

 

剣道で学ぶべきは 人斬りではなく、心の置所

〜村上彰(東山子)〜

 

幼少期の苦労も苦労とは思っていない。

やるべきことをしっかりとやり、 あふれる情をもって、人との縁の一つひとつを大事にしてきた

48歳のときに剣道を始め、小唄や謡をこよなく愛し、読書も趣味としながら、その職業は大工の棟梁。 中学校剣道部の外部指導者として教育に携わった経歴もつ。

90歳を間近にした村上彰さんが、確かな記憶で人生を振り返る。

 


-村上彰-

昭和3年10月3日岩手県東磐井郡室根村折壁に生まれる。

武蔵工業大学教授である酒井勉(建設省建築研究所初代第五部長) 氏の門下生として建築の道を深める。

座右の銘は『初志貫徹細心大胆 』。

東京都板橋区在住。剣道教士七段。号は東山子


 

村上彰さんは剣道教士七段。本年10月には90歳を迎える。

東山子の雅号を持ち、そうなところだけど、垂れネームは「村上」よりも「東山子」を使うことの方が多いという。剣道の号だそうだ。

 

「私は昭和52年、48歳のときに剣道を始めたんです。

そんな歳にもなって、教えをいただく先生方とはいえ、『村上!』な んて呼び捨てにされちゃあ、親父やご先祖様にも申し訳ない。そう思ってね。

それで、画家や書家や文筆家がつけるような雅号をつけようと、江戸時代中期の儒学者『芦東山』( あしとうざん)にちなんで『東山子』と名乗ることにしたんです。

芦東山は仙台藩の人で、生まれが私の郷里に近い今の岩手県一関市あたりです」

 

普段は「東山子」と名乗り、村上をつけるときは「村上東山」と名乗るという。

「子」には敬称の意もあるようだ。

 

「本当だったら恩師の面川義雄先生(範 士八段)も、可愛がってくださった松井貞志先生(範士八段)も『東山!』と呼びそうなところだけど、『村上!』でもなく『東山!』でもなく、『東山子!』と呼んでくださいました。

『東山子! こっちに来い!』って。

歳の下の先生方も、『東山子』『東山子』って、すぐに定着して、いまに至っています」

 

村上さんは、長く大工棟梁として活躍。

居間の開放感ある吹き抜けが目を引くご自宅も、「全部俺が一人で作ったんだよ」と豪語する。

柱86本すべてにカンナをかけると、さしもの手も腫れ上がったそうだ。

 

「金釘は一本も使ってないよ。阪神大震災のあと柱の一角に金物をつけたけど、3階の仏壇の茶碗が落ちただけ。手入れも してきたし、丈夫だね」

「江戸東京たてもの園」(小金井公園内) にある宮造りの銭湯(子宝湯)の移築にも、村上さんは腕をふるった。

 

その作業を始めるすこし前、松井貞志範士から道場建築を依頼されたという。

「松井先生が道場を建てるにあたって高 額な見積もりに頭を悩ませていたようで す。

そのとき、剣道のお弟子さんから私が 大工であることを伝え聞いたらしい。

『東山子は大工だったのか! ぜひ相談に乗って欲しい』と。

それで私が右武館を建 てた。金釘は一本も使わずに。子宝湯移築の練習もかねてね(笑)」

東京都板橋区のご自宅にて。居間の一角が吹き抜けに なっていて、その天井は3階の床という造り。 大工棟梁 の村上さんが、金釘を使わずたった一人で造り上げた

 

趣(おもむき)のある道場は、二階に師範室や更衣室、防具置き場が機能的に配置され、階下の稽古の風景を小窓から見下ろせる配 慮もなされている。

床も立派。落成直後は白かった黒松の板も、年来の稽古と手入れを物語るかのように黒く光る。

 

「士農工商って昔は言ったもんだけど、 祖母がよく言ってましたよ。

『商人になっちゃいけないよ』って。商人は商談だけで人様から金をとるっていうイメージが あったんだろうね。

お金をかせぐには汗 を流して報酬をいただかなきゃ駄目だよと。

それで私は『工』を選んで、ものを作って対価をいただく大工になった」

 

|学生の教え子全員に 卒業時、秀衡塗の箸を贈る

大工仕事のかたわらで、村上さんは中学校の剣道部で 年間指導にあたった経歴をもつ。

現在、右武館道場の師範を務める教員の佐藤光男さんが、板橋区の志村第一中学校を異動で離れるにあたって剣道部のその後の指導を村上さんに願ったのがきっかけだった。

 

昭和59年のことというから、中学校における“外部指導員”のはしりといえる。

佐藤さんも、村上さんの人柄に惚れ込んで、教育現場への橋渡しをしたのであろう。

「当時、私は五段。『子どもとばかり稽古してたら段を取れないよ』なんて言われもしたけれど、私はそうじゃないと思う。

人に教えるということは、自分が正しいことをきちんと覚えなきゃいけない。

だから稽古も真面目になるんだよ。七段になれたのも、お陰さまと感じてますよ」

 

志村第一中学校剣道部で、村上さんに 指導を受けた教え子は大勢いる。

つい先日も、教え子の一人が結婚の報告に来たそうだ。

式の前に彼女を連れて村上さん宅を訪問し、式を済ませたあとも「無事に終えました」とわざわざ足を運んでくれたという。

30年のあいだ、技術だけを教えたのではないことが伝わってくる話 だった。

 

「生き方につながることも教えなきゃ駄 目だよな。それもひっくるめて剣道なんだから。

私は高等小学校までだから、学はない。学校の先生も嫌いだったけど、人として立派な先生もいて、教えがずっと心に残っていることもある。

毎日お弁当を食べるとき、必ず唱和させられた歌なんか、くり返しくり返し言わされるうちに、すっかり頭にも体にも染み込みました。

“読書百遍義自ずから見る”(どくしょひゃっぺんぎおのずからあらわる)だよね」

唱和した歌のは次の二首だ。

 

・箸とらば 天地御代の 恩恵み 祖先や親の 恩を味わえ

・箸を置く 時に思へよ 高恩の 道に怠り ありはせぬかを

 

村上さんは30年の指導中、剣道部員が卒業するたびに、この二首の歌を書にし、岩手の職人が作った秀衡塗の箸を添えて 卒業生全員に贈り続けてきた。

 

村上さんが外部指導を辞めたのは、大学を卒業したての若い教師が新たに顧問に就いてからだった。

その指導方針に戸惑いを覚え、指導者が一体でなくなることの子どもへの悪影響を思ってみずから身を引いたという。

 

「学校を卒業したからといっても、勉強が終わりになったわけじゃないよ。

人生 は日々勉強。書物を読んだり、人の話を聞くことでいくらでも成長できるんだ。

と くに人との交流が大事で、良い友を選び、良い友になること、そして良い師と巡り合うことが人生を豊かにしてくれる。

柳生流の『習工練』も、『良い師について習い、自分で工夫して、練り上げていく』 と説いています。

剣術も人生もここが大事。大きな声で挨拶する人は心がきれいと思えるのも、人を大事にする姿勢を感 じるからだろうね」

 

中学生たちをしばしば自宅にも招いた。大釜で作ったカレーを振る舞ったり、気仙沼から取り寄せたイカを七輪で焼いて食べさせたりしたのも、双方にとって懐かしい思い出になっている。

 

昭和54 年に開館した右武館道場は今 年40周年、建物は30周年を迎える

 

|剣術の名著を知らない道場。「役に立たない」と、すぐ辞めた

べらんめえ調の語りも、その中身は優しく、覗かせる笑顔も温かい。

子どものころからガキ大将で、チャンバラごっこも兵隊ごっこも自分が大将役でなければやらないような腕白だった。

「嫌われ者だろうな(笑)。村でも、俺が通ると雨戸を締めたって(笑)。だけど、弱い者いじめをしたことはないよ。むしろ弱い子を助けてた」

 

親分肌の気質は、その後の棟梁という仕事でも大いに発揮されていく。

同時に語られた喧嘩の話も興味深いものだった。

 

「取っ組み合いの喧嘩で相手をぶん投げるようなことはあったよ。だけど、顔を殴ったり殴られたりしたことなんか一度もない。

ましてや相手を蹴ったぐるようなことなんか、しようと思ったことすらないよ。

蹴るなんていうのは、人を侮辱することだからね。

いまは平気で人を蹴ったりするけど、昔は喧嘩にもルールがあった。

『人様を殴ったり蹴ったりするなどまかりならん』と親も言ったし、仲間うちでもそれが暗黙の了解だった。投げるのは力比べ。テレビなんかでも殴る蹴る の乱暴なシーンが出たりするけど、俺なんかからしたら考えられないことだよ」

 

どんなに激昂しても、引かれた一線は理性をもって守られていた。

やってはならないことを伝えるために、大人たちは「人を侮辱してはならない」と子どもたちに説いた。

 

大人たちが発する言葉いかんで、世の中も変わる。

その意味では剣道界も、指導者である大人たちの発する 言葉が将来を左右すると認識すべきであ ろう。

発する言葉に筋を通し、やっては いけないことをきちんと理解させるよう仕向けることで、子どもたちにも暗黙の了解が広がっていく。

 

「 私は先に死ななきゃいけない 。君たちはこれからだ 」。未来を託すその目は優しく厳しい

 

村上さんは、その後も物語を聞かせるように人生を振り返った。

時期や固有名詞が淀みなく出るあたりにも、村上さんの思い出の濃密さが感じられた。

5歳のときに母親を亡くし、小学2年生のときに魚屋に奉公に出され、小学6年生からの東京での生活は太平洋戦争と重なり、昭和20年4月2日の空襲で家を焼き出されて岩手に戻ったこと。

レーモンド設計事務所の創設者の一人である酒井勉氏との出会いから、目指してきた建築の道に大いに明かりが灯されたことなどを、昨日のように語ってくれた。

 

そんな村上さんが、一念発起して剣の道を目指すことに決めたのが48歳のとき。

「始めるにあたって郷里の叔父に『剣道を始める』と伝えたら、佐藤文雄というその叔父から巻物のような手紙が届きました。

表装してずっと居間に掲げていますが、剣道の嗜みがあった叔父は大変嬉しそうで、いろいろアドバイスを綴っています。

 

宮本武蔵の『五輪書』や沢庵禅師の『不動智神妙録』を読みなさいともあった。どこの道場にも置いてあるものと思って最初に通った道場の先生に聞くと、『なんですか、それは?』と。

ここで剣道を続けてもなんの役にも立たないと思って、 10日で辞めました」

 

なにを求めて剣道に取り組むのかは人 それぞれ。

人生の経験が豊かになるほど、技よりも心のあり方を求めるケースも多 くなる。

その期待に答えるのが剣道高段者や道場主の役割。

 

剣道を始めたころに贈られた叔父・佐藤文雄氏からの手紙を表装。その言葉に励まされながら修行を重ねてきた

 

これまで剣道に携わってきた村上さんは、こんな風にもいう。

「少子化少子化っていうけど、剣道がためになるものと分かれば親御さんだって子どもに剣道をさせたくなりますよ。

人を斬る動作だけ教えていたら、いまの時代なんの役にも立たないんだからバカバカしいと思われちゃう。

親御さんの目に剣道が魅力的に映るためには、子どもたちに心の置所をきちんと指導してやることが大切だと思いますよ」 もっともである。

 

「剣道の勝負というのは真剣勝負。死ぬか生きるかをかけるわけだから、やたらに打ちっこできるはずない。心の剣道に変わるような努力が大事だと思います」

 

『五輪書』や『不動智神妙録』は、分かりやすい現代語訳を含めて村上さんのもとに何冊かある。

そこから学んだことは、心の問題という部分で剣道の実践にも置き換えられる。

課題克服に向けた努力は 稽古の愉しみにもなる。そして、本から学び得ることも多い、とも。

 

 

「いまの人は本を読まなさすぎる。読書っていうのは感受性を高めてくれるもの。

文庫版の『徳川家康』(山岡荘八)は26巻 あったけど、そこにはたくさんの人が出てきました。

それぞれの人物の生い立ちやら性格やらが細かく描かれ、勉強にもなる。

日本の歴史も分かるし、いろいろな人柄を知れるし、人とのいろいろな接し方も分かるし。

人間性のあり方を感じたりね。本を読んでいれば、ものの感じ方も膨らんでくるから、人の話にピンとき やすくなる。

そうすると、チャンスをつかむ可能性も高まってきます。

人間の幸不幸というのはつねに流れていて、感受性豊かであれば、これだなというチャンスをつかめます。

ぼーっとしていれば幸せを逃します。幸せをつかまえたら、あとは努力。そこで努力をしなきゃ、なんにもなりません」

 

(取材・文=月岡洋光、撮影=川村典幸)

 

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