幕末の剣豪と聞くと、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。
激動の時代である幕末は、坂本龍馬や桂小五郎、また新撰組の近藤勇や土方歳三、沖田総司をはじめとして、有名な剣客が数多くいました。
今回はその中でもひときわ強かったとされる、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の人生について紹介していきます。
|山岡鉄舟と剣道・剣術
まずは山岡鉄舟と剣道がどのように関わっていたのかを、山岡鉄舟の人生を振り返っていきます。
彼はどのような人生を歩み、剣道の修練を積んでいったのでしょうか。
剣道との出会い
山岡鉄舟は1836年に、江戸の名家である小野家の子として誕生しました。
1836年は有名な老中、水野忠邦が天保の改革を行う少し前です。
彼の生まれた小野家という家は、武芸の名門の家として有名です。
彼は父親の役職の関係により、幼い頃を飛騨(現・岐阜県飛騨高山市周辺)で過ごしました。
また母方も、江戸時代の剣豪である塚原卜伝(つかはらぼくでん)を祖先に持つ、まさにサラブレッドといえる家系でした。
そんな鉄舟は、幼い頃から剣術の流派の一つである、直心影流剣術(正式名称・鹿島神傳直心影流)を学び始めました。
また父親の呼び寄せた先生の影響により、江戸の有名な剣術である北辰一刀流も学び始めたと言われています。
これが鉄舟少年と剣道との出会いであり、この後には忍心流槍術という槍の流派のひとつも学んでいます。
山岡家に入る
1852年、幼い頃を飛騨で過ごしていた鉄舟は、父親の死に伴い江戸へと戻りました。
江戸に戻った鉄舟は講武所(=江戸幕府が設置した武芸訓練所)に入り、千葉周作(=北辰一刀流の創始者)に、更に本格的に北辰一刀流の教えを受けたとされます。
また山岡静山に、忍心流槍術を学んでいます。
17歳の時点で両親を亡くした鉄舟は、身長6尺2寸(=約188センチ)・体重28貫(=105キロ)という、当時としては考えられないほどの体格に成長していきました。
恵まれた体格と共に、数々の剣術兵法を体得した鉄舟は、山岡静山が27歳で急死したあと、まわりに推されて静山の妹、英子の婿養子となり、小野姓から山岡姓に変わりました。
さらに同じような頃、剣術の技量がとても高かった鉄舟は、講武所の世話役に任命されたそうです。
中西派一刀流を学ぶ
先術の通り、鉄舟は幕末当時としてはかなり大柄な体格であり、剣術の技量もかなり優れていましたが、そんな鉄舟でもどうしても勝てなかった相手がいました。
その相手が、中西派一刀流第4代の浅利義明(あさり よしあき)でした。
剣の道にのめり込んでいった鉄舟は、浅利義明に弟子入りして、自分が打ち負かすことのできなかった中西派一刀流を学んだとされています。
|山岡鉄舟の主な功績
ここからは、山岡鉄舟の残した功績を、武芸と明治維新についての両面からご紹介します。
幕末の激動の時代を生きてきた山岡鉄舟は、歴史に残る功績を数多く残しています。
武芸の功績
山岡鉄舟は、剣術においては直心影流と北辰一刀流、更には中西派一刀流を、槍術においては忍心流槍術を学び、それぞれにおいて素晴らしい技量を持っていたとされています。
そんな山岡鉄舟は、晩年に自身の道場「春風館」や宮内省の道場「済寧館」(=現・皇宮警察本部)、剣槍柔術永続社(=後に大日本武徳会のモデルとなった組織)など、様々なところで剣道を教え、数多くの弟子を育てました。
明治の剣豪である松崎浪四郎(まつざきなみしろう)も、門弟であったと言われています。
さらには自身で、一刀正伝無刀流(無刀流)という剣術の流派を開いたとされています。
鉄舟の剣道観は、近代剣道の樹立にも大きく貢献したということで、平成15年(2003年)に全日本剣道連盟が定めた剣道殿堂にも選ばれています。
明治維新での功績
山岡鉄舟は名前に舟が入っていることから、幕末に活躍したと言われる3人である「幕末の三舟」のひとりとして名前があげられています。
「幕末の三舟」とは、山岡鉄舟のほか、海援隊を作った勝海舟(かつかいしゅう)と徳川慶喜の使者であった高橋泥舟(たかはしでいしゅう)が挙げられています。
尚、高橋泥舟は山岡鉄舟の妻である英子の弟、つまり山岡鉄舟の義理の弟に当たります。
幕末の時代に講武所に勤めていた山岡鉄舟は、その剣の腕を買われて、後に新撰組となる「浪士組」が結成された際に、取締役に任命されました。
その後、徳川慶喜が大政奉還をして明治時代になった際、新政府軍は旧幕府軍を攻めていき、江戸城を攻め落とそうとしていました。
そのような状況の中で、江戸城を開城しようと考えていた勝海舟は、新政府軍の指揮官である西郷隆盛を説得するため、山岡鉄舟にその説得役を頼みました。
それを引き受けた山岡鉄舟は、新政府軍が警備している建物に単身で乗り込み、大胆不敵にも「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかり通る。」と大きな声で言いながら西郷隆盛に会いに行ったと言われています。
これにより西郷隆盛を説得できた山岡鉄舟は、見事に江戸城の無血開城させることに成功しました。
|山岡鉄舟の逸話
様々な偉業を残した山岡鉄舟ですが、剣や槍の道以外に、書道にも精通していた芸達者な人でした。
禅の道を追求していたという、山岡鉄舟の生き様についても解説していきます。
書の達人
幼い頃から剣術を学んできた山岡鉄舟ですが、それと同時期から書を学び始めました。
15歳のころに書の師匠から認められた山岡鉄舟は、人生において100万枚もの作品を残したと言われています。
さらに書を依頼された際には、必ず無償で書いていたとされています。
禅の道
激動の時代の中、世間は体制改革を求める方向に動いていましたが、山岡鉄舟はそれとは真逆ともいえる禅の道を追求していきました。
鉄舟はもともと質素倹約の性分で、剣の達人でありながら不殺を生涯貫いた人物です。
またお金や地位に全く囚われない人であり、その人生は常に貧しいものであったと言われています。
それが、禅の道に繋がっていたと考えられています。
禅の道に進む鉄舟は周囲からの信頼も厚く、鉄舟が逝去した際には、その後追いをしようとした弟子や、関わりのあった明治天皇ですら、その死を悲しんだと言われています。
|山岡鉄舟杯剣道錬成大会
現在、剣道において多大な功績を残した山岡鉄舟の名前を冠した「山岡鐵舟先生顕彰 少年剣道錬成大会」、通称「山岡鉄舟杯」が毎年、東京で開催されています。
その数は今年(2020年現在)で16回目を迎えます。
この大会は小学校低学年団体戦の部、小学校高学年団体戦の部、中学生団体戦の部の3つの部門に別れている、申し込めばどのチームでも出られるオープン大会形式になっています。
毎年全国から強豪チームが出場していて盛り上がっています。
|山岡鉄舟が築いた剣の道
山岡鉄舟が追求した道や、貫いた信念というものは現代の人の心をも動かしうるものです。
ここに記載したことは、彼の人生のほんの一部分です
ご興味ある方は、より詳しく彼について調べ、人生から色々なことを学ぶのも良いのではないでしょうか。
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